思いの丈☆宅配便

書いて読んで繋がりませんか!

受験の的確なアドバイス🔷芦屋市長高島崚輔さん

 今朝の「受験する君へ」は、芦屋市長の高島崚輔さんだ。

 彼の受験生へのアドバイスが的確である。

皆様に、ぜひ知っていただきたくて、ご紹介する。

『受験勉強で一つだけやってほしいのが「振り返り」です。私は定期考査の帰りの電車で、「前日に調べたことが出題された」「計算ミスをしてしまったかも」など、スマホにメモしていました。テストが返ってきたら、「思った通りケアレスミスをしていた」など、振り返りを更新し、次のテストで何に気をつけるべきかを書きました。   続けることで、自分にとって良い勉強法や点が取れるベストなやり方を、感覚的に知ることができたように思います。ただの「間違い直し」だと、たまたま正解した問題も、終了間際に直して正解した問題も、結果的に「マル」だから見落としてしまう。でも振り返りをしておけば、テスト直後に「公式を間違って覚えていた」などと書くので見落としがない。同じミスを繰り返さなくなるんです。  受験の合格点は、ほぼ決まっています。他者ではなく自分との戦いで、いかに自己分析するかに尽きると思います。苦手な科目より得意な科目出点を稼いだ方がいいとか、振り返りを重ね、自分なりの戦略や方法を見つけるのが大事ではないでしょうか。「傾向と対策」は大事ですが、まずは「自分の傾向」を知ってほしいです。  目標を立て、それに対して一番良い方法を考え、着実に実行する。うまくいかなければ修正を加え、試行錯誤する』

 

 高島崚輔さんは、勉強をしていくプロである。

ぜひ、皆様、いえ御子息、御息女のご参考になれば幸せである。

 

能登半島の開業医●大石賢斉さん

 今朝の「ひと」掲載の大石賢斉さん記事を一気に読んだ。

 彼は、地区内の健康マラソン大会で走った直後に地震が起きた。現場に駆けつけ、消防署員と民家の下敷きになった住民を引っ張り出し、けが人を小学校まで運んだ。地区では17人が命を失った。処置のかいなく低体温症で亡くなったお年寄りもいた。「これ以上、死者を増やすわけにはいかない」全壊した診療所から医療器具を取り出し、避難生活を送る住民を毎日巡回して見守った。とある。

  これをありがたいと思いながら読んだ。

そして、文章の最後に、こう結んであった。

都市部への2次避難が進む。また戻ってほしいと願いつつも「町がなくなれば自分も去る。私が必要な所にいる。それだけです」

 

ずっとその場所に居ないことと、自分が必要とされる所を探して行くことの使命感とその潔さに、憧れと清々しさを感じた。

これは、大石賢斉さんの生き様であるが、私自身も同感である。

18日の鈴木佑一さんのYouTubeを見て

 昨日、18日に思いの丈を綴った鈴木佑一が

17日に震災の集いで話す様子と共に、お兄さんと対面するYouTubeを見ることができた。

お兄さんは、ずっと1月がくるのが怖いと言っていたと言う。

そのお兄さんの気持ち、自分だけが1人、施設の生活ではなくて、佑一さんを迎えに行けなかったことを申し上げないと思っていたことが見ていて伝わってきた。

 今回「佑一さんに会ってみたら」と話したのはお兄さんの奥さんだった。

いい奥さんでよかったと思った。

 20年という長い年月は、戻ってこない。しかし、これからの日々は、きっと取り戻していける。それを亡くなったお母さんの富代さんも、にこにこして見守ってくれることだろう。

今朝、そのYouTubeを見て、お兄さんが会う勇気を出して、2人が素直になれてよかったと思い、泣き過ぎて、頭が痛くなった(笑)

大震災による圧迫死を防ぐ対策

 29年経つ阪神・淡路大震災の死亡原因は、ほとんどが家具の倒壊や家具などの転倒による圧迫死であった。

それを防ぐ方法を知ることが重要だと察したので、朝刊掲載の東京消防庁のハンドブックより、以下4点を引用する。 

❶ 生活空間や寝床になるべく家具を置かない。置く場合は、背の低い家具にするか、倒れる方向を考えて置き方を工夫する。

❷ 避難の妨げにならないよう、出入口周辺にも転倒しやすい家具は置かない。

❸ 棚に物を収容する場合は、重い物を下に入れ、重心を低くすることで倒れにくくする。

❹ 家具は金具などで壁に直接固定する方法が最も効果的。

 これを読んでいて、当たり前のことばかりだった。しかし、狭い所に住む生活事情から、出来ていないことが多いことに気付く。

生き続けることを考えたならば、まずは片付けよりも断捨離。そうすれば、危険回避できる。

早速に始めませんか。

 ご参考になれば幸いです。

阪神・淡路大震災で別れた兄弟

 29年という年月は経っても、1月17日の新聞には、震災で家族を失った方のことが掲載される。私はこれを一文字一文字大切に読むことにしている。あれから29回目か。

 29年目の今回は、神戸市須磨区の貿易業、鈴木佑一さん(34)だった。  

彼は8歳上の兄と母の富代さん(当時44)と共に、生活苦に見舞われた母子の駆け込み寺「神戸母子寮」に身を寄せていた。父親は酒ばかり飲んで、育児をしない人だったようだ。

 阪神・淡路大震災で木造2階建ての母子寮は倒壊し、母の富代さんは亡くなった。佑一さんも生き埋めになったが、瓦礫から救い出された。お兄さんは父親に引き取られ、佑一さんだけが児童養護施設に預けられた。

父親は佑一さんが18歳の時に、児童養護施設の理事長から孤独死したことを聞いている。

 佑一さんの転機は19歳のころ、母子寮の元職員から手紙と、お母さんの富代さんの小豆色のマフラーを受け取った時だ。

手紙には元職員さんの文字で、富代さんが佑一さんをひざの上に抱っこして「私にはこの子がいるから大丈夫」とよく話していたと書かれていた。これを読んで初めて、お母さんから愛されていたと実感できたそうだ。

手紙には「寂しい時は鏡を見て笑ってごらん。ゆうちゃんの顔はお母さんそっくりだよ」とメッセージも書かれていたそうだ。(私は、この元職員さんにお礼を言いたい。この方は、ほんといい人なのだろう。笑顔の意味も、この方から教えていただいたので感謝したい。寂しいと時に笑うと、心がふわっとなって寂しさも和らぐから。)そして佑一さんは気付く。元職員のように、自分のことを気に掛けていれる人もいる。

夜中にアルバイトをして学費を稼ぎ通った大学時代の恩師も、自分のことを息子のように可愛がってくれたそうだ。

そのお陰で佑一さんは、時間と周囲の優しさによって、生きる自信もなく、ひとりで死ぬのではないかという不安も解かしていったという。

  もう一つ、ずっと心に引っ掛かっていたお兄さんのことを昨年、人づてに耳にした。 

人づてに耳にできることが、亡くなったお母さんの富代さんからの凄いプレゼントだと思う。

お兄さんは、自分だけがお父さんに引き取られ、弟である佑一さんを迎えに行けず「何もしてあげられなかった俺が(弟に)合わす顔がない」と周囲に話しているのこともだ。

佑一さんが、優しくて精神的に大人で前向きに生きていると思うのは、以後の取った言動だ。

「兄はずっと後悔したままだ。幸せに生きてほしい」とお兄さんの自宅を調べて、昨年11月末、会いに行く。

会いに行くとお兄さんは、うつむいたままだった。「兄ちゃん、気にしなくていいよ」と伝えた。するとお兄さんは、ようやく顔をあげた。「救われた」と言ってくれたそうだ。

 きっとお兄さんは、およそ20年間、罪悪感に苛まれて生きてこられたのだろう。佑一さんと同じくらい、いやそれ以上に精神的にしんどかった毎日だったのではないかな。

(だから、お兄さんにはよくぞ佑一さんに会ってくださいました。ありがとうございますと言いたい。)

 

 佑一さんは遺族代表の言葉で、こう語っている。私は彼の5歳から34歳までの人生の重みと今の生き生きとした姿を見て、よい意味での涙が溢れた。それは温かいものだった。

「私は震災で大切な母を失いました。しかし、震災の後に多くの素晴らしい方々に出会い、本当に支えられてきたことも事実です。私は今の自分がすごく好きです」

そして彼は17日の追悼行事の後、初めてお兄さんと2人で、お母さんのお墓参りに行ったそうだ。お母さんの形見の小豆色のマフラーを、17日の追悼の遺族代表で話した時と同じように巻いて。

(この時のお母さんの富代さんは、2人を見て、にこにこされていただろうなあ。)

 

 

 

あれから29年の阪神・淡路大震災

 1995年1月17日の午前5時46分に起こった阪神・淡路大震災から、29年となる。

総務省消防庁のまとめによると、死者は6434人、住宅被害63万9686棟、火災被害7574棟だった。

そして、能登半島地震被害のまとめ(NHK NEWS WEBによると)では、(16日2時)石川県222人の死亡、安否不明者22人である。

 

 阪神・淡路大震災では、私自身も天井がぐらぐら揺れたことを覚えている。知り合いも、お母様がコンクリートに埋まっていたのを助けたことを聞いている。

 今、能登半島地震のことを祈りながらも、何を思っているかをお伝えしたい。

 生きていく為には、衣食住をする住む場所がいる。その場所は、地震などの災害が起こらない所、海や山の災害に呑み込まれにくい所がよい。改めて、それを考える。

あとは、いざという時に、どういう気持ちでいるかを常々、家族で話し合いの場を持つ必要がある。それが時間を過ごす上での生きる指針となるからだ。

そして、最後は、何も無い時の生き方だ。

「あの時こうしておけばよかった」という後悔をしないように、自分のすべき日常を当たり前にしていくこと。そうすれば、どんなことが起こっても、動揺しないで、今何をすべきかを考えられると思う。

 

最後に、震災のことを風化させないで語っていくこと。

これは、皆様にもできるのではないでしょうか。

それが命いただいて生きている私たちの役目だと思います。

能登地震大間圭介さんの喪主の挨拶

 今朝、何気なくスイッチを点けたテレビから、能登地震で亡くなられた家族の告別式をする喪主の大間圭介さんの声が流れてきた。

「かけがえのない時間を与えてくれてありがとう。生まれてきてくれてありがとう。永遠に僕の宝物だよ」と号泣される大間圭介さんが居た。

  大間さんは12月30日、金沢市の自宅から仁江町にある奥さんの実家に向かい、義理の父母と祖父母、奥さんの兄の家族3人の総勢12人の賑やかなお正月を迎えていた。

午後4時過ぎ、地震が襲った。

大間さんは警察の仕事で警備をしているので、最初の揺れの後、周囲の状況を確認するために外へ出たところ、2度目の揺れで裏山が崩れてきた。子どもたちは居間でボードゲームをしていた。土砂は家に残った11人をのみ込んだ。

 日本海に面する集落は道路が寸断され、住民も一緒に救出作業に当たってくれた。その夜、瓦礫の中から奥さんの兄を救出。その手には、生後間もない男の子がしっかり抱かれていて、2人と無事だった。兄嫁については記載がない。

 翌2日から消防隊員が来て捜索したが、願いは届かなかった。自衛隊が到着した4日に妻はる香さん(38)長女優香さん(11)、5日には長男泰介君(9)と次男湊(そう)介ちゃん(3)が遺体で見つかった。祖父は救出後、帰らぬ人となり、祖母は遺体で見つかった。

義理の父と母は、まだ見つかっていない。

 

今回の能登地震では、お正月の帰省がこの結果を導くことになった。

大間圭介さんに、お言葉を掛けるのであれば、こう伝えたい。

「神様が、まだあなたには現世でのやるべきことがあるから、生かされたのです。家族と一緒に命が亡くなったほうが、あなたには気持ちが楽で嬉しかったかもしれません。でも、それを経験したというのは、貴方と同じ想いをした方の気持ちが痛いくらいにわかるのではありませんか。それをわかってさしあげるのですよ。

現世での貴方のやるべきことがわかった時に、あなたは、心も磨かれていきますよ。

がんばらなくていいから、毎日を大切にご自分の出来ることを積み重ねていってください。そうすればいつか現世での命を終える時に、奥かまのはる香さんと来世で夫婦になれるというご褒美がお約束されるかもしれませんね」