思いの丈☆宅配便

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阪神・淡路大震災で別れた兄弟

 29年という年月は経っても、1月17日の新聞には、震災で家族を失った方のことが掲載される。私はこれを一文字一文字大切に読むことにしている。あれから29回目か。

 29年目の今回は、神戸市須磨区の貿易業、鈴木佑一さん(34)だった。  

彼は8歳上の兄と母の富代さん(当時44)と共に、生活苦に見舞われた母子の駆け込み寺「神戸母子寮」に身を寄せていた。父親は酒ばかり飲んで、育児をしない人だったようだ。

 阪神・淡路大震災で木造2階建ての母子寮は倒壊し、母の富代さんは亡くなった。佑一さんも生き埋めになったが、瓦礫から救い出された。お兄さんは父親に引き取られ、佑一さんだけが児童養護施設に預けられた。

父親は佑一さんが18歳の時に、児童養護施設の理事長から孤独死したことを聞いている。

 佑一さんの転機は19歳のころ、母子寮の元職員から手紙と、お母さんの富代さんの小豆色のマフラーを受け取った時だ。

手紙には元職員さんの文字で、富代さんが佑一さんをひざの上に抱っこして「私にはこの子がいるから大丈夫」とよく話していたと書かれていた。これを読んで初めて、お母さんから愛されていたと実感できたそうだ。

手紙には「寂しい時は鏡を見て笑ってごらん。ゆうちゃんの顔はお母さんそっくりだよ」とメッセージも書かれていたそうだ。(私は、この元職員さんにお礼を言いたい。この方は、ほんといい人なのだろう。笑顔の意味も、この方から教えていただいたので感謝したい。寂しいと時に笑うと、心がふわっとなって寂しさも和らぐから。)そして佑一さんは気付く。元職員のように、自分のことを気に掛けていれる人もいる。

夜中にアルバイトをして学費を稼ぎ通った大学時代の恩師も、自分のことを息子のように可愛がってくれたそうだ。

そのお陰で佑一さんは、時間と周囲の優しさによって、生きる自信もなく、ひとりで死ぬのではないかという不安も解かしていったという。

  もう一つ、ずっと心に引っ掛かっていたお兄さんのことを昨年、人づてに耳にした。 

人づてに耳にできることが、亡くなったお母さんの富代さんからの凄いプレゼントだと思う。

お兄さんは、自分だけがお父さんに引き取られ、弟である佑一さんを迎えに行けず「何もしてあげられなかった俺が(弟に)合わす顔がない」と周囲に話しているのこともだ。

佑一さんが、優しくて精神的に大人で前向きに生きていると思うのは、以後の取った言動だ。

「兄はずっと後悔したままだ。幸せに生きてほしい」とお兄さんの自宅を調べて、昨年11月末、会いに行く。

会いに行くとお兄さんは、うつむいたままだった。「兄ちゃん、気にしなくていいよ」と伝えた。するとお兄さんは、ようやく顔をあげた。「救われた」と言ってくれたそうだ。

 きっとお兄さんは、およそ20年間、罪悪感に苛まれて生きてこられたのだろう。佑一さんと同じくらい、いやそれ以上に精神的にしんどかった毎日だったのではないかな。

(だから、お兄さんにはよくぞ佑一さんに会ってくださいました。ありがとうございますと言いたい。)

 

 佑一さんは遺族代表の言葉で、こう語っている。私は彼の5歳から34歳までの人生の重みと今の生き生きとした姿を見て、よい意味での涙が溢れた。それは温かいものだった。

「私は震災で大切な母を失いました。しかし、震災の後に多くの素晴らしい方々に出会い、本当に支えられてきたことも事実です。私は今の自分がすごく好きです」

そして彼は17日の追悼行事の後、初めてお兄さんと2人で、お母さんのお墓参りに行ったそうだ。お母さんの形見の小豆色のマフラーを、17日の追悼の遺族代表で話した時と同じように巻いて。

(この時のお母さんの富代さんは、2人を見て、にこにこされていただろうなあ。)