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能登の子は13年前の私

 今朝の新聞掲載は、小学校教諭になった中谷萌瑛さん(23)だ。題目の『能登の子は13年前の私だ』は、彼女の半生を要約している。さすが教員資格をお持ちなだけある。文章がきめ細やかで、よく理解できた。

 彼女は、13年前まで東日本大震災が起こった福島県いわき市で生活していた。断水に続く予震、放射能への恐怖から、お母さまの判断で能登に引っ越しをした。

 その時彼女は小学4年生。まさかその13年後に、同じ経験をするとは予期しなかった。きっとこれは偶々ではなく、人生のシナリオに既に載っていたと思う。それは意味のあることであるからだ。このことは、次に説明したい。

彼女は、昨年、お母さまと同じ職業の先生を選び、石川県中能登町の鳥屋小学校の先生になった。

 同じ地震被災地の福島県いわき市からの移動は、初めての土地で『静かな良い子でいなきゃ。自分らしさを出して、嫌われたら大変』と自分の存在を許してもらえるかの不安から、自分に言い聞かせた。その経験が、彼女に、こう語らせている。

「新しい仲間が増えました。学校でいい子でいなきゃなんて思わず、自分らしく過ごしてね」

私は、この言葉は、子どもにとって、どんなに心強いか、そして安心できるかとこちらまで嬉しくなった。

 彼女には、自身の精神面での成長に、大きな役割を担ってくださった方がニ人いる。

まず一人目は、担任の中江先生だ。

中江先生は、石川県に転校してきた時の不安いっぱいだった心を分かって実質的にフォローしてくださった。

先生とは、教育実習先で再開している。うれしそうに出迎えていただいたようだ。

この担任の中江先生は、彼女の周囲へのちょっとした遠慮や友だちとのぎこちない関係を見逃さず「どんどん輪に入っていいんだよ」と背中を押してくれた。風邪で休んだときは、悩んでいるのではないかと心配し、家まで様子を見に来てくれた。学校全員を前に、「いろんな友だちと関わる大切さ」を説く授業をしてくれたこともあった。その結果、同級生との距離がぐっと近づい気がしたようだ。そして、内から外へと世界は広がった。地元のよさこいチームに誘われ、入団すると知り合いが増え、近所の人たちも、「大変だったね」と小学校の制服のおさがりや、畑で作った野菜を相次いで持ってきてくれた。聞き取れなかった土地の方言もいつ頃から分かるようになったのかはわからないが、自然と口から出るようになっていた。

 もう一人は、お母さまだ。

東日本大震災の土地から石川県能登への自主避難という決断を話された。

引っ越しする2日前に話したのは、お別れでつらい思いをさせる期間を長引かせたくないと熟慮した結果だった。それは、お母さまの人柄もあるが、教師をされていて子どもの教育面でも勉強、体得もされていたからだろう。そして何よりも我が子を思う愛情が深かったからと予想する。お母さまは、避難先で家族の暮らしを介護の仕事で支えてくれたことも、生きて行く為には大きい。

  

まとめると、中谷萌瑛さんは、お母さま、中江先生の精神面のフォローしてくださる人のお陰で、今がある。プラスその時の子ども時代の経験が、現在の石川県での教員指導に活きている。風化されないという役目も彼女は、しっかりと果たしていくだろう。

 

 皆様も、ご自分の人生を振り返ってみてください。私自身もそうだった。

今関わるお仕事や普段何気なくされていることは、苦手なことや辛かったことが切っ掛けではないでしょうか。

 私は、感受性が鋭くて、気疲れで生きることもしんどい子ども時代だった。それが昔の20歳の成人式を過ぎてから、かなり年数を掛けてだが、この感受性の鋭さを活かしていけないかと考えた。今では、五感で感じたことを相手に言葉掛けで伝え、笑顔をいただけることに喜びを感じている。

 

 人生は、90歳近く生きている方も、まだまだこれからと言われている。

皆様も、私のように短所を長所に輝かせて生きている者もいることを知って、再度ご自分の価値を見直して今から生きてみませんか。

楽しくなりますよ。