思いの丈☆宅配便

書いて読んで繋がりませんか!

民主主義守る一票を入れてきた

 芸能人のブログにも、「大変なことが起こりました。お悔やみ申し上げます」とあった。

 最近の首相では歴代最長の在職だった安倍晋三元首相。銃弾に撃たれた奈良県西大寺駅北口では、400メートルはあろうかと見られる列が続いたそうだ。

 考えることは色々あるが、大切なことはただ一つ。それは、選挙に行き、投票してくることだ。

私は、昨夜から、ポスターや選挙候補者新聞をじっくり目を通して、自分の気持ちを代弁して社会を実際に変えてくれる候補者と党を選んだ。

そして、たった今、選挙の投票に行ってきた。

今、たまらなく清々しい。

 安倍晋三元首相の死を慎むのであれば、投票こそが私たちの決意の表明である。

お天気も良くない所もあるかと思うが、ぜひ、投票してくださいね。

 

 

 

 

 

信号が赤信号ならどうしますか?

 前回の1+1=2ではないことの、続き。

ならば、赤信号ならどうしますか?

 実は、半分呆れている毎日のこと。

赤信号なのに、平気で渡る人(毎日)がいる。

これは、車に轢かれるとかの怖い目に遭わないと、青信号迄待って渡ることをしない。

「しゃーあない」と思うか、「どんなに急いでいる時でも青信号迄待って渡る」と心に決めるか。

 皆様は、いかがですか?

私は、日々、社会ルールは心して守ると言い聞かせております。(笑)

「1+1=2」は人生に当てはまらない

 今朝の加藤登紀子のひらり一言の『「1+1=2」は人生に当てはまらない』が目に留まった。

 皆様は、どう思われますか?

私は20代の頃、父親に、事あるごとに『1+1は2ではない。2でないことのほうが多い。いや2でない方がいいこともある…』とよく言われた。

 実際のところは、分かっているけれど、2であって欲しいという思いの方が強かったのが本音である。曖昧にしておくことを避けて、何事もハッキリすることで、気持ちを楽にしておきたかったようだ。

勿論、その根底は、今も変わっていない。

しかし、人間を長くやってくると、曖昧にしておく方が、その時はよいことも体感として分かってきた。だから、その時の相手に「どう思う?」と聞いて即決しないようになった。と同時に、自分自身にも「即決したいのは分かるけれど、今即答しないことで、少し経ってから、その時どうすれば良かったかのいい方法が分かるよ」とアドバイスしてあげられるようになった。

勿論、「今日の晩御飯は、カレーか煮魚か」という現実的な即決しないと買い物にも行けなくて困ることは即決しながらも、即決と長く考えて決める事柄の判断が出来るようになった。

 今、外をウォーキングしていると思う。 

1+1=2でないから、人生は逆転だって起こる。だから面白いんだよ。

折々のことばで勇気をいただく

今朝の折々のことばは、奈良の宮大工である西岡常一さんの言葉だ。

「頭が切れたり、器用な人より、ちょっと鈍感で誠実な人の方がよろしいですな」

その解説が面白い。『器用な人は苦もなく先に進んでゆけるので、往々にして「本当のものをつかまないうちに」作業を終えてしまう。反対に不器用な人は「とことんやらないと得心ができない」から、要所を疎か(おろそ)にせずに熟達すると、奈良の宮大工は言う…』

 

 私自身も不器用なほうだから、何事も素早く熟す人が羨ましくて堪らなかった。でも、解説して頂くと、初めて分かった。そうなんだ、本当のものをつかまないうちに作業を終えてしまうのかと。

何度も何度も繰り返していく不器用な私は、その無駄な⁈時間の中から、「この作業は自分の苦手なここを気付かせてくれる為にあったのか!」と体得出来ることが幾度もある。

 西岡さんの解説により、私も捨てたもんじゃないな、と嬉しくなった。

 

皆様も、何かの気付きになればと願って、今日の折々の言葉を載せた。(笑)

 

先生がいたから頑張れた

 今朝から始まった新聞記事の見出しに釘付けになる。これは、ある高校の取り組む記録。

 『3年3組の沖本飛斗さん(18)は、元担任の中根豊講師(62)と握手した。「先生に助けていただいて、卒業できました」…』

沖本さんは、小学2年で父親が病死し、母親と2人暮らし。母はスーパーや清掃員のパートで忙しく働いていた。幼い頃から母は、缶酎ハイに手を伸ばしていた。母が残した缶を見つけては捨てた。母はアルコール依存の治療や患者会に通い、治す努力をしていた。そんな母を助けたかったが誰にも相談できなかった。 その高校を受けたのは、家が近かったから。入学して1カ月経った2019年5月11日。土曜授業から帰宅したときだった。「ただいま…」。感じたことがないくらい、空気が重かった。寝室に入る前に、何か起きたかを察した。 母は、顔から崩れ落ちたように、ベッドの脇に倒れていた。食事ができず「入院しようか」と話していた矢先だった。救急車を呼び、必死に心臓マッサージした。その日は、16歳の誕生日だった。 翌日から、担任の中根先生が自宅に来て、葬式にも参列してくれた。「学校では、何事もなかったようにしてほしい」と頼んだ。 でも。朝、「行ってきます」を言う人がいない。帰宅する家は、すっからかんで暗い。ふとした瞬間に孤独が押し寄せた。「誰もおらん…」 学校では一人じゃなかった。朝、教室に入ると、中根先生が黒板の前のイスに必ず座っていた。沖本さんが毎朝最初に「おはよう」を言う大人は、中根先生になった。先生の付き添いでケースワーカーと話した。里親の元で数人の子どもが暮らす「ファミリーホーム」に住むことが決まった。先生は、親戚のおじいちゃんのようだった。 授業は、中学の「学び直し」から始まった。この高校では、1年次に、国語•数学•英語を基礎から学ぶ「モジュール授業」がある。集中力が続くよう、1コマ30分。数学は分数、英語はbe動詞から学ぶ。 「俺、中学行ってなかった」「私も行かんかったわ」。友達と話すと、不登校だったのは自分だけではないと気づいた。「みんなで頑張りたい」と思うようになった。沖本さんが友達に勉強を教える姿を、中根先生は見守った。 別の先生に誘われ、生徒会に入った。2年生になり、文化祭のテーマを「虹」に決めた。「みんなの個性の色を生かし、学校に虹をかけよう」との思いを込めた。 孤独を感じる人たちも、その人らしく過ごせたらいい。学校だけでなく、社会がそうなればいいと思うようになっていた。生徒会の活動や勉強が面白くなるにつれ、自然と将来の夢が浮かんでいた。「誰もが前向きに働ける会社をつくりたい」 大学で経営学を学ぼうと、3年の秋から、1日10時間勉強した。そして2月、一般入試で大学の経営学部に合格した。 卒業式の2日前、3年間の成長を発表する「エンパワメント学習発表会」でこう話した。

 

 この言葉が素晴らしかったので、長くそのままを引用してきた文章に、一区切りつけて、皆様のお心に印象づけたい。

 

「学校では、努力すること、人に頼ることの大切さを学んだ。しんどいこともあったけど、全てが自分の将来につながると思う」

 

努力することは出来ても、人に頼ることが出来ず、悶々と悩み苦しむのが日常。それを18歳にして学んだ沖本さんには、心からの拍手を届けたい。そして、「本当によく頑張ったね。これから、貴方なら大丈夫」とエールを送りたい。

 

 

最終回🌸塾が教えない中学受験必勝法

 教育ジャーナリストのおおたとしまささんの3年間掲載されたコラムが本日で最終回となった。

先日も中学受験についての素晴らしい文章をご紹介したが、今回も二重花丸の文章であったので、ご紹介したい。

 『「中学受験はゴールじゃないスタートだ」とはよく言われますが、それは6年後の大学受験へのスタートなんていうちっぽけな意味ではありません。この先何十年と続く「大人の階段」へ向けてのスタートです。 死力を尽くして手を伸ばしたのに、するっと指の間からこぼれ落ちるものが、人生にはときどきある。空虚な手のひらを、しばらくぼうぜんと眺めるでしょう。でもいつか、その空虚にすら、意味を見いだすことができる。それが人生。 そんなことを親子で学べるのも、中学受験で得られる価値なのです。これから中学受験に挑む親子には、そこまでを見据えて取り組んでほしいと思います』

 

 中学受験を経験出来る子どもは、結論から言うと幸せです。しかしそれは、本人が望まないことかもしれないし、逆もある。つまり、その経験は、大人になる階段を早く登り始めるか、そうでないか。

 人生は人それぞれ。正解も不正解もない。答えは、今世最後の時に、自分で決める。その時に、中学受験して良かった(学べた)ことを分かれば、いいのではないかな。出来れば親が健在の時に分かって、そのことを親に一言伝えてあげることが出来れば、それだけで十分過ぎる親孝行になると思う。

 皆様は、どのように思われますか?

塾で人生が決まるのか?おおたとしまさ

 今朝の耕論で、興味深いことが載っていたのでご紹介したい。

大題は、塾で人生決まる?

3人の方がご意見を載せられいたが、おおたとしまささんの文章が分かりやすくて、納得がいったので、中盤からを省略せずにそのまま引用する。

 『塾は、受験競争を激しくしていると犯人扱いされることがあります。しかし、これだけ多くの家庭が上を目指すのは、日本の学習編重主義が根底にあるからです。地位達成の手段としての教育という土壌があり、受験競争がある。そもそも偏差値で表される学力によって社会的地位が決められてしまう社会構造が、根底的な問題だと思います。 塾を巡っては、地域や所得による教育格差も問題となっています。教育は個人のためだけにあるわけではないのに、「頑張った自分は教育で得たものを独り占めしていい」と考えている人も多い。 この勘違いを払拭しなければ、「一部の人だけ塾に通えるのは不公平」という批判に反論できません。恵まれた環境で得たものを世の中に還元する、という価値観を親も子も持って欲しいと思います。 また、誰もが大量の学習をこなせるとは限りません。トップ校に入りたいという親の気持ちは理解できますが、それが我が子を追い詰めるリスクを忘れてはいけません。 受験システムに過剰適応し、子どもを「勝ち組」にしようと視野が狭まる多くの保護者を私は見てきました。大学入試共通テストの初日、東大の前で凶行に及んだ高校生の事件も起きました。「トップじゃなければ人生おしまい」という恐怖心に追われて生きるのは苦しいでしょう。 偏差値が5や10違っても人生に影響はない、と我が子に言ってあげましょう。子どもの肩に乗りきらないものを無理に背負わせるのではなく、過剰な競争には付き合わないという防御を担うべきです。子どもを守ってあげられるのは、保護者だけなのですから』

 私自身も親として、子供の受験に共に向き合ってきた。周りに影響を受け、それがあるからいい面もあるが、気持ちが負けそうになって、心身共に苦しくなったのも事実。一番大切なのは、子供の地頭•学習能力•性格をトータルして考え、将来の子供の姿を俯瞰して思い浮かべること。なによりも子供の現実と向き合うこと。

 どうぞ最終的に、心身共に、親子で笑顔で迎えてる春になりますように祈っております。

 そのブログが読んで良かったものになれば嬉しいです。