思いの丈☆宅配便

書いて読んで繋がりませんか!

人生、顔じゃない〜の折々の言葉

朝から、炭酸水を飲んだような気分爽快感が現れた。

ひさびさに、朝日新聞の折々の言葉を引用する。

「人生、顔じゃない。顔になっていくのが、人生なんだ」

詩人の田村隆一さんの言葉である。

 

若いうちは、誰も理解が不可なこと。

顔というのは、言っても 見た目なので、親から頂いたパーツの一つ一つや、バランスが取れていたりして 好印象を貰える人を見ると羨ましいもんだ。

まして、喋らなくても、居るだけで存在感がある顔の人の側なら、逆に、落ち込んでしまう。

それが更に、話す言葉も標準を越えていたりすると、妬んだりもしてしまう。

就職活動は、特に、これが悩みの一つになる。

でも、これは、物事の最初の頃だけだと認識して欲しい。

恵まれた顔の「顔に甘え」た人は、自分自身の内面を切磋琢磨することなく、中年まできてしまう。

だから、一生懸命を蔑ろにして、中身のない人生を送り兼ねない。

しかし逆に、見た目の顔で苦労した人は、まず見た目を良くする為に、笑顔を習慣化したり、心で泣くということを当たり前にする。

喜びは、惚れ惚れするいい顔となる。

このいい顔は、常に自分の顔と向き合ってきた人にだけに与えられる神さまからのプレゼント。

かく言う私も若い時、容姿端麗ではなかったので、漠然と、いい顔の人にないたいと強く願った。

不器用だったので、努力して形にする喜びを覚えた。

結果、一年や二年での顔の変化は無かったが、三年から五年で、生き生きした顔を貰った。

人の心の表と裏を分かり、寂しさを知って涙し、辛い人への声掛けが出来るようになった。

だから、田村さんの「顔になっていくのが、人生なんだ」が分かりすぎるくらいに分かる。

 

若い人は今、何でもスマホで撮って、インスタにアップされる。面白いものも多い。

だから、毎年、ご自分のお顔を撮って、スマホアルバムにされることをお勧めする。

五枚くらい溜まったら、見比べてごらん。

その変化が、ご自分の生きてきた、言い換えば努力した結果だからね。

美じゃなくて、中身の濃さを求めていきましょう。

楽しいから。

 

栗原はるみの居場所

季刊誌が出た。

キッチンから心をこめて、に目が急いだ。

「まったくの専業主婦だった私が、外国で英語で料理を教えるようになるなんて、ほんとうに夢のような話です。これも英語の勉強をコツコツ続けてきたかしら。70歳は過ぎたけれどやりたいことはいっぱい。料理家として力をつけてきた子どもたちにも負けてはいられません。そのためにも自分の努力でつかんだと実感できる居場所が欲しい。ハワイには私を待ってくれる人々がいる。私だからこその役割がある。大げさにいうと自分の人生を確かめに行く場所、それがハワイなのです。」

彼女は、ハワイの食の魅力を世界に発信する『フード親善大使』を任されたのがきっかけで、ハワイの食材を使った栗原はるみの料理をイベントで披露したりする中で、さまざまな人との出会いがあった。

そのひとりハワイ州立大学の先生から、日本の家庭料理を教えて欲しいという話を貰って、年2回ハワイに行くことになった。

 

人の人生は、何が幸いするか分からない。

とすれば、彼女のように常にアンテナを周りに向けて、発信した方が絶対にいい。

私もやっと、自分のやりたいことが朧げながら見えてきた。

いつか、彼女のように、自分の居場所を手にしたい。

いやあ、きっと、日本にいくつも出来るかも。

ぐっと、彼女に背中を押して貰えた。

感謝である。

 

最後に、彼女の言葉を書いてエンドとする。

 

「料理と英語、一生懸命続けてきてたどり着いた場所ハワイに行くと心身ともに解放されます」

上沼恵美子の過去告白に、優しさ

 TOKIO山口達也へのコメントが相次いでいる。

その中で、上沼恵美子さんの自身の過去告白に愛を感じた。何故なら、普通ならそこまでは言わないからだ。

以下、ご紹介する。

 

「私、30代の時、ビール一晩20缶飲んでたんですよ。」

当時、仕事がうまくいっておらず、酒量が増えていたという。基本的には、家飲み。

 泥酔したある日、16歳の次男が「いい加減にせえ!」と椅子をパーンと蹴り飛ばし、上沼はひっくり返ったという。夫も見ている前での出来事だった。

「母親の醜い姿を息子に見せたという恥。情けなくて…。」

次の日、寝室で泣いていると、次男がやってきて、

「オカン、ごめんな」と詫びた。

上沼も「お母さんの方こそ改める。こんな母親でごめんな」と謝罪。

「私、本当にドキッとした」と当時を振り返った。

 

この話を聞き、ご本人の告白と共に、ご次男の勇気に敬意をはらった。

よく、お母さんの目を覚まさせてあげたね。偉い。と。

彼の椅子の蹴り飛ばしがなければ、今尚テレビで活躍する上沼恵美子さんは、いない。

毒舌キャラの彼女こそのコメント。

酒断ちは、誰にでも容易いものではない。

上沼さんの過去告白を自己のこととして受け止め、山口達也が今後の人生を生きていければと祈る。

 

栗原はるみさんの本に心感じて

いつも、栗原はるみさんの本の見開きページを読むのが好きだ。

なんてことない文章なのだが、心がほろっとくる。

今回は、孫の七五三の話から、ご自身の歳を重ねたことが語られている。

ちょっとご紹介する。

「 孫たちの成長ぶりを見ていると、子どもたちが幼かったころを思い出します。あのときは私もまだ未熟で、してやれなかったこともあったなあ、仕事を始めたばかりで、子どもたちも不安だったのではないかしらなど、ほろ苦思いがこみ上げることもあります。それでも子どもたちは一人前の大人に成長してこうして親になった、親の気持ちが分かる立場になったのかなと、感慨にふけることもあります。それと同時に思い知らされるのは私自身の年齢。孫、子どもが成長した年月と同じ時の流れは私にもあって、ずいぶん年を重ねたものだと、しみじみ感じます。愛おしく、そして懐かしく、けれどちょっぴり寂しいような切ないような複雑な気持ち。」 

 

彼女の歳の重ね方を、一読者として、共に生きてきた。

いいなあと思う。

女性として、決して華やかではなく、普通に生きてきた彼女を尊敬する。

拍手を送りたい。

いかがでしょうか?

阪神大震災の問い掛け

 阪神大震災から、23年経った。

 

今朝の天声人語を読んで、涙が込み上げてきた。

主役は、神戸市の会社員、中村翼君。

阪神大震災の当日に生まれ、成長する姿をテレビで追われ、小学生になるとプロ野球の始球式に招かれた。

果たしてそれが、彼にとって良かったのか、そうでなかったのか。

先週、神戸市内の小学校での震災を伝える「語り部KOBE1995」での講演で分かった。

 

先程の始球式に招かれたりすることについて、から続いている。

「思春期にはそれが負担で悩んだ。何千人も亡くなった日に僕は単に生まれただけ。何もやり遂げていない。誕生日を隠すようになりました」

 

思い悩んで屈折した彼の思春期を想像すると、運命も皮肉だと感じる。

でも神さまは、彼に、大きな飛躍となる機会を与えた。

大学で防災教育を学び、心境が変わり、東北の被災地でボランティアをし、仮設住宅の人々と話をした。

そして、今まで避けて聞くことのなかった生まれた日のことを両親に尋ねた。

 

揺れた瞬間、父が母に覆いかぶさったこと。火の手が見え、家を出たこと。避難先の小学校で破水したこと。見ず知らずの女性が車で休ませてくれたこと。病院へ向かう道が渋滞し、警官に頼み込んで車線の脇を誘導してもらったこと。4時間かかってたどり着いた病院が停電していたこと。父の懐中電灯に照らされて生まれたこと。倒壊の恐れから病院を出たこと。深夜まで産湯を使えなかったこと。

 

この話の中から彼は、分かる。

自分が生きているのはまさに奇跡だということが。

 

これを気づかせんが為に神さまは、屈折した生き方をさせたのかもしれない。

 

彼は最初、その時に生まれただけと言っていたが

とてつもない大きな役割を担っていた。

阪神大震災を、これから日本を背負って立つ子供達に肉声で語り伝えることだ。

 

有り難う、中村翼君。

よく元気に生きていてくれた。

 

 

十代目 松本幸四郎に敬服

やっと心が目の覚めるコラムに出合う。

新聞の「ひと」だ。

歌舞伎の大名跡を襲名した十代目 松本幸四郎さん(44)とタイトル•共に、きりりとした横顔が写っていた。

書かれている文章に、自身も彼と同化した。

 

「プレッシャーもあります。少しは親孝行になるかな。でも、名よりも、何をしていくかということが大事です」

  20歳の頃、正座がつらいことがあった。声も出づらかった。理想とする姿と自身との開きにも悩んだ。

「向いていない。やめたい」。悩み抜いた揚げ句、「歌舞伎が好きという一点で一番になろう」と吹っ切った。

 

この最後の「  」の心意気に敬服した。

上手で一番にはなれないし、判断も不可能。

でも、好きというのは、その人の顔や仕草に表れる。

だから、とことん突き進めていける。

きっとそれが客観的にお分かりになるのは、全てをご存知のお天道様だけではないかな。

 

まだ彼がお父様•お母様と三人で出演されていたコマーシャルの若々しい姿が、記憶に残る。

あれから彼は、どれだけ切磋琢磨して歌舞伎の道を歩んできたのか。

 

結びの言葉にぐっときた。

 

「最近、汗の量が減ってきた。無駄な力が抜け、ほどよい力で自己解放できている証拠。『歌舞伎職人』という言葉にもひかれます」

 

日々の努力は、身体が覚えたようだ。

いつか、ご子息が同じ名前を襲名される時に、父親としての言葉を見てみたい。

 

 

 

北翔海莉のおやじのせなか

 このコラムを読んでいて、春休みの思い出が過った。

  北翔海莉は、皆様ご存知の、元宝塚のトップスター。

彼女のお父さんは、海上自衛隊パイロットだった。お兄さんも、自衛官。だから、彼女自身も、迷わずに続くつもりだったそう。

ところが、背が高かったことで中学校の先生の勧めで、40倍の宝塚音楽学校を受験したことから、進む道は変わった。

   彼女のお父さんは、娘に掛ける言葉が違う。

宝塚音楽学校の合格発表には行かずに、高校の入学式に出た娘の代わりに、出張のついでに見に行ったのは、お父さんだった。

落ちて泣き崩れる親子を見て「入りたくても入れない人がいる。やり遂げる責任がある」と不安だった15歳の彼女を送り出してくれたそう。

   トップになる前に辞めようと思った時は「自分がやり残したことはないか」「支えてくれる人に納得するものを与えられたか」と問われたそう。

そして、軍人役の時は「敬礼がなっとらん」と所作や言葉遣いにはうるさかったそう。

退団公演での軍人役では(役の上で)「僕の階級を超えた」と笑い、「穴を開けず舞台に立てたことに感謝しなさい」とねぎらって下さったそう。

   それでは、本日の最初の一文に戻る。

春休みに、息子の入学祝いに、息子からのリクエストで出掛けた所は、鹿屋の海軍基地だった。

中を案内して下さった方が、出口の所で話されたことが今も頭に残っている。

「宝塚の北翔海莉さんのお父さんは海軍の方で、ご自分が退官される時に、ご挨拶に来られました」

 

北翔海莉が「私が男役で軍服を着て髪をリーゼントにしたら、父にそっくりなんです」と言うように、きっと凛々しい方なのだろう。

たとえ、娘が自衛官にならなくても、違う世界で、自分の生きる世界を観客として見れたことは、とびきりの親孝行だったに違いない。

久しぶりに、心熱くなる父娘の話を知ることが出来た。

改めて、こんな素敵な話を公開してくれた北翔海莉さんに、お礼申し上げたい。

感謝。