思いの丈☆宅配便

書いて読んで繋がりませんか!

上沼恵美子の過去告白に、優しさ

 TOKIO山口達也へのコメントが相次いでいる。

その中で、上沼恵美子さんの自身の過去告白に愛を感じた。何故なら、普通ならそこまでは言わないからだ。

以下、ご紹介する。

 

「私、30代の時、ビール一晩20缶飲んでたんですよ。」

当時、仕事がうまくいっておらず、酒量が増えていたという。基本的には、家飲み。

 泥酔したある日、16歳の次男が「いい加減にせえ!」と椅子をパーンと蹴り飛ばし、上沼はひっくり返ったという。夫も見ている前での出来事だった。

「母親の醜い姿を息子に見せたという恥。情けなくて…。」

次の日、寝室で泣いていると、次男がやってきて、

「オカン、ごめんな」と詫びた。

上沼も「お母さんの方こそ改める。こんな母親でごめんな」と謝罪。

「私、本当にドキッとした」と当時を振り返った。

 

この話を聞き、ご本人の告白と共に、ご次男の勇気に敬意をはらった。

よく、お母さんの目を覚まさせてあげたね。偉い。と。

彼の椅子の蹴り飛ばしがなければ、今尚テレビで活躍する上沼恵美子さんは、いない。

毒舌キャラの彼女こそのコメント。

酒断ちは、誰にでも容易いものではない。

上沼さんの過去告白を自己のこととして受け止め、山口達也が今後の人生を生きていければと祈る。

 

栗原はるみさんの本に心感じて

いつも、栗原はるみさんの本の見開きページを読むのが好きだ。

なんてことない文章なのだが、心がほろっとくる。

今回は、孫の七五三の話から、ご自身の歳を重ねたことが語られている。

ちょっとご紹介する。

「 孫たちの成長ぶりを見ていると、子どもたちが幼かったころを思い出します。あのときは私もまだ未熟で、してやれなかったこともあったなあ、仕事を始めたばかりで、子どもたちも不安だったのではないかしらなど、ほろ苦思いがこみ上げることもあります。それでも子どもたちは一人前の大人に成長してこうして親になった、親の気持ちが分かる立場になったのかなと、感慨にふけることもあります。それと同時に思い知らされるのは私自身の年齢。孫、子どもが成長した年月と同じ時の流れは私にもあって、ずいぶん年を重ねたものだと、しみじみ感じます。愛おしく、そして懐かしく、けれどちょっぴり寂しいような切ないような複雑な気持ち。」 

 

彼女の歳の重ね方を、一読者として、共に生きてきた。

いいなあと思う。

女性として、決して華やかではなく、普通に生きてきた彼女を尊敬する。

拍手を送りたい。

いかがでしょうか?

阪神大震災の問い掛け

 阪神大震災から、23年経った。

 

今朝の天声人語を読んで、涙が込み上げてきた。

主役は、神戸市の会社員、中村翼君。

阪神大震災の当日に生まれ、成長する姿をテレビで追われ、小学生になるとプロ野球の始球式に招かれた。

果たしてそれが、彼にとって良かったのか、そうでなかったのか。

先週、神戸市内の小学校での震災を伝える「語り部KOBE1995」での講演で分かった。

 

先程の始球式に招かれたりすることについて、から続いている。

「思春期にはそれが負担で悩んだ。何千人も亡くなった日に僕は単に生まれただけ。何もやり遂げていない。誕生日を隠すようになりました」

 

思い悩んで屈折した彼の思春期を想像すると、運命も皮肉だと感じる。

でも神さまは、彼に、大きな飛躍となる機会を与えた。

大学で防災教育を学び、心境が変わり、東北の被災地でボランティアをし、仮設住宅の人々と話をした。

そして、今まで避けて聞くことのなかった生まれた日のことを両親に尋ねた。

 

揺れた瞬間、父が母に覆いかぶさったこと。火の手が見え、家を出たこと。避難先の小学校で破水したこと。見ず知らずの女性が車で休ませてくれたこと。病院へ向かう道が渋滞し、警官に頼み込んで車線の脇を誘導してもらったこと。4時間かかってたどり着いた病院が停電していたこと。父の懐中電灯に照らされて生まれたこと。倒壊の恐れから病院を出たこと。深夜まで産湯を使えなかったこと。

 

この話の中から彼は、分かる。

自分が生きているのはまさに奇跡だということが。

 

これを気づかせんが為に神さまは、屈折した生き方をさせたのかもしれない。

 

彼は最初、その時に生まれただけと言っていたが

とてつもない大きな役割を担っていた。

阪神大震災を、これから日本を背負って立つ子供達に肉声で語り伝えることだ。

 

有り難う、中村翼君。

よく元気に生きていてくれた。

 

 

十代目 松本幸四郎に敬服

やっと心が目の覚めるコラムに出合う。

新聞の「ひと」だ。

歌舞伎の大名跡を襲名した十代目 松本幸四郎さん(44)とタイトル•共に、きりりとした横顔が写っていた。

書かれている文章に、自身も彼と同化した。

 

「プレッシャーもあります。少しは親孝行になるかな。でも、名よりも、何をしていくかということが大事です」

  20歳の頃、正座がつらいことがあった。声も出づらかった。理想とする姿と自身との開きにも悩んだ。

「向いていない。やめたい」。悩み抜いた揚げ句、「歌舞伎が好きという一点で一番になろう」と吹っ切った。

 

この最後の「  」の心意気に敬服した。

上手で一番にはなれないし、判断も不可能。

でも、好きというのは、その人の顔や仕草に表れる。

だから、とことん突き進めていける。

きっとそれが客観的にお分かりになるのは、全てをご存知のお天道様だけではないかな。

 

まだ彼がお父様•お母様と三人で出演されていたコマーシャルの若々しい姿が、記憶に残る。

あれから彼は、どれだけ切磋琢磨して歌舞伎の道を歩んできたのか。

 

結びの言葉にぐっときた。

 

「最近、汗の量が減ってきた。無駄な力が抜け、ほどよい力で自己解放できている証拠。『歌舞伎職人』という言葉にもひかれます」

 

日々の努力は、身体が覚えたようだ。

いつか、ご子息が同じ名前を襲名される時に、父親としての言葉を見てみたい。

 

 

 

北翔海莉のおやじのせなか

 このコラムを読んでいて、春休みの思い出が過った。

  北翔海莉は、皆様ご存知の、元宝塚のトップスター。

彼女のお父さんは、海上自衛隊パイロットだった。お兄さんも、自衛官。だから、彼女自身も、迷わずに続くつもりだったそう。

ところが、背が高かったことで中学校の先生の勧めで、40倍の宝塚音楽学校を受験したことから、進む道は変わった。

   彼女のお父さんは、娘に掛ける言葉が違う。

宝塚音楽学校の合格発表には行かずに、高校の入学式に出た娘の代わりに、出張のついでに見に行ったのは、お父さんだった。

落ちて泣き崩れる親子を見て「入りたくても入れない人がいる。やり遂げる責任がある」と不安だった15歳の彼女を送り出してくれたそう。

   トップになる前に辞めようと思った時は「自分がやり残したことはないか」「支えてくれる人に納得するものを与えられたか」と問われたそう。

そして、軍人役の時は「敬礼がなっとらん」と所作や言葉遣いにはうるさかったそう。

退団公演での軍人役では(役の上で)「僕の階級を超えた」と笑い、「穴を開けず舞台に立てたことに感謝しなさい」とねぎらって下さったそう。

   それでは、本日の最初の一文に戻る。

春休みに、息子の入学祝いに、息子からのリクエストで出掛けた所は、鹿屋の海軍基地だった。

中を案内して下さった方が、出口の所で話されたことが今も頭に残っている。

「宝塚の北翔海莉さんのお父さんは海軍の方で、ご自分が退官される時に、ご挨拶に来られました」

 

北翔海莉が「私が男役で軍服を着て髪をリーゼントにしたら、父にそっくりなんです」と言うように、きっと凛々しい方なのだろう。

たとえ、娘が自衛官にならなくても、違う世界で、自分の生きる世界を観客として見れたことは、とびきりの親孝行だったに違いない。

久しぶりに、心熱くなる父娘の話を知ることが出来た。

改めて、こんな素敵な話を公開してくれた北翔海莉さんに、お礼申し上げたい。

感謝。

 

大竹しのぶ、まあいいかで涙

 我がブログには、大竹しのぶの まあいいかがよく登場する。

本日は、大竹しのぶのお母さんから彼女に届いたハガキのお話。

   一ヶ月の「にんじん」東京公演の後、10日間の大阪公演を終えて、帰宅された時のこと。

充実感と疲労感と淋しさが込み上げてきた時に、机の上の一枚のハガキが目にとまったそう。

それは、留守中の大竹しのぶにお母さんが書かれたハガキ。

「舞台お疲れ様。大変でしたね。身体は大丈夫ですか。舞台は面白かったです。しのぶは本当に子供に見えました。こちらは元気です。いつもありがとう」

このハガキを読んで、大竹しのぶは、明日からのエネルギーが湧き上がってくるのを感じることが出来たそうだ。

彼女が、これを受けて、お母さんに心から返した言葉に涙を貰った。

ご紹介する。

「お母さん、あなたにもらった気力と体力で、また一つの仕事をやり終えることが出来ました。明日からまた頑張って、全てのことを乗り越えてゆきます。ありがとう。おやすみなさい」

 

私自身の心の隅々まで、彼女の純粋な母親への感謝の思いが染み渡った。

一挙に淀みがなくなった。

 

親への感謝の気持ちほど、美しいものはないと実感した。

花も人も、命は一瞬一瞬

 題字は、華道家池坊の次期家元、池坊由紀改め専好さんの言葉だ。

彼女も、もう51歳。

結婚前の24歳時に書かれた本の、初々しかった頃を知っているので、それからの27年間がどんなものであったのかが、この言葉で分かる。

    いずれは、家元を70年以上務めているお父様の専永さんからバトンを渡される。

現在は、「花も人もそれぞれ。父の道を大切にし、自分らしさを出せれば、と思います」と世界に敏感でありたいと朝夜に英BBCや米CNNニュースを見ているそうだ。

「紛争や移民問題、環境破壊など凄まじい体験であふれている。家元継承を重いなんて言ってられないです」としっかり現実を直視。

池坊史上初の女性家元になるが「華道では性別は意味がない」とハッキリ。

そんな彼女だが、「好きな花は?」と尋ねられるとこう答えた。

「スズランやユリといった、奥ゆかしくうつむいているような花が好きです」と。

24歳時と本質は変わっていなかったことに、ほっとした。

   インタビューの最後に、「自分らしい華道哲学とは?」に対しての答えが、いつまでも頭に残った。

 

「今を生きる、です。思い通りにならず、悩み事がのしかかり、もがいたこともあります。でも、過去の後悔、未来の不安ではなく、今に集中して、今に生き、後は天に任せるのです。…命は一瞬一瞬、花も刹那刹那。人と花は、瞬間を生きています」

 

同じように、今を全力で生きていきたい。