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思いの丈☆宅配便

書いて読んで繋がりませんか!

がん教育に取り組む教員免許を取得した医師

 癌は、今や誰もが知っている難病である。

芸能人の闘病記録は、本にもなり、ドキュメンタリーとなると涙と高視聴率を取る。

しかし、身近に衣食住を共にしないと実際のところは分からない。

そのことに対して憤りを感じ、髪の毛が抜ける癌患者への知識と理解を考えて、教員免許を取得した医師がいる。

彼の名前は、林和彦。

中学の時に父を癌で亡くし、医師を志す。30年間、食道癌の外科医や緩和ケア医として約3千人の患者を見た。3年前に学内の癌センター長に就いてから、小中高校を訪ねて、がん教育に取り組むようになった。大学教授だが、人に教えることを学んだことはなかったので、通信課程の大学に編入、教育学部で授業の進め方や教材の作り方を学んだ。病棟を早朝に回診した後、日中は都内の女子高で教育実習も受け、1月に中学•高校の保健教員免許を取得。

学校の教師達が「 仲間意識を持って受け入れてくれるようになった 」と喜ぶ。そして、子供達に癌を正しく知って貰えば、社会で長く生かしてもらえると『 「 がん 」になるってどんなこと?』を出版した。

 

彼の現在までやってきたことは、どうすれば癌患者の本当の姿を知らない子供から老人までの健常者に理解して貰えるか!が元になっている。

地頭が良い上に、生きていく上でも賢いからこそ成し遂げることが出来た。

彼の努力の積み重ねを知り、今の自分に満足することなく、更なる高みを目指して生きたいと強く思った。

そして、

知力は、皆平等であるということを実現する為に生かされるべきだと伝えたい。

 

   人は、生まれながらにして、神様から可能性という宝物を頂いている。

それに早く気付き、形にして、人のお役に立てるようになることが、この世に生を受けたご恩返しではないかな。

 

最後に、彼の楽しみを紹介しておく。

   楽しみは、授業の後に子供達に記入して貰うアンケートを読むこと。「 1時間の授業でも、凄く変わる。家族の健康を気遣うようになる姿を目の当たりにできるのが嬉しい 」

 

 

 

 

天が与えた三物を持つ人

 天は二物を与えず、とは聞いた言葉である。

しかし、三物も与えた人も世の中にはいる。

そのことを夕刊記事「 元プロボクサーの医師、どうして仏門に? 」で知った。

  彼について、少しご紹介。

京大医学部出身のプロボクサーとして注目され、西日本新人王にもなった川島実は現役引退後、医師になった。その後、2014年秋、仏門に入った。

ボクシングと並行して3度の挑戦で国家試験には合格し、主に救急医療の現場で活動した。

仏門入りのきっかけは、ボランティアで訪れた中高の先輩だった僧侶に誘われた。もともと出身校は東大寺が設立しており、仏教は身近だった。

「 世の中を良くするために、個人ができることを全うする。それはお坊さんが世の中の平安を祈ることと通じる 」と思うようになった。

父の病気もあって14年春に地元奈良市に戻り、得度。現在は関西圏の複数の病院に当直医として勤務しつつ、月6日は東北の被災地で診療をしている。

 

切り離して考えると、3人の人の話のようである。

が、違う。

1人の人間がなし得た快挙である。

東大寺という中高に通ったというご縁も関係する。

京大医学部に入って医者になれるというのも、与えられた知力、ボクサーになれるのも、与えられた体力、いや1番は努力を重ねられるという強運もある。

 

最後に結ばれた言葉が凄い。

東大寺での研修では「 家族などすべての道を断ち切れ 」と教えられた。極端な言葉に聞こえるが、要は「 自分と見つめ合うこと 」と解釈している。それは

ボクシングで学んだことにも通じている。

 

天は本当に成し遂げられる人にしか、三物は与えない。👏

 

反抗期が長いと親孝行になる?

 朝からの新聞テレビ欄のコラムで、一瞬にして爽やかな気分になった。

なぜなら、読売アナウンサーからフリーに転身した川田裕美アナウンサーのインタビューに、ほっこりしたから。

   彼女は、10代の頃に、長い反抗期が続いた反動もあって「 親を悲しませたくないし、家族が喜んでくれる仕事をしたい 」とフリーになってからの仕事を選んでいる。

  見た目がおっとりとしているので、反抗期が長かったなんて思えない。むしろ、なかったかのように見える。

そう考えると、人はその風貌からは判断出来ないと意識を新たにする。

そして、いつも感じることだが、感情面での苦労が多かった人程、他人に優しく、身内にも素直になれるのかもしれない。

   改めて、川田裕美アナウンサーの活躍を祈りたい。

 

 

子供に生きる力を与えるのが、先生

 新聞のコラムで「 先生 」を見つけた。

 現代の仕事の中で、一番頑張って欲しい人だから書いてみたい。

  テレビでお馴染みの林修が、こんなことを書いていた。

「 先生ができることは実は限られています。自転車の補助輪と同じで、生徒が自力走行できるようになれば役目は終わる。…補助輪としての仕事とは、生徒の内面の力を引き出すことです。生徒が、自分の秀でている部分で勝負できる土俵を見つけるお手伝い。」

その通りである。

彼がテレビの仕事をしながらも、東進ハイスクールで古文を教え続けているのは、生徒や保護者の熱い

支持を受けているからだ。

きっとその役目を果たしているのだろう。

   コラムの中に、思わず唸った高校生のものがあった。

「 先生について二つ分かったこと。一つは、先生と教師はイコールでないことだ。『 教師 』は学問を教える。『 先生 』は悩んでいる生徒に寄り添い、先に生まれた人生の先輩として、自分の経験をもとに諭す人だ。二つ目は、先生は生徒以上に失敗をたくさんしている。だから、生徒に共感や同情ができるのだ。」

この高校生は、大学に落ちて捨て鉢になっていた時に、高校生の英語の先生に声を掛けられたことを、心に激しく響いたと書いている。

実に素敵な声掛けの言葉だ。

「 まっすぐな君が好きだ。定期的にご飯でも食べよう」

 

皆様は、今まで出会った先生で忘れられない人はいますか?

   子供の学生時代は、紆余曲折だ。

クラブや勉強の取り組み方や友人関係等、悩みは尽きない。

現代は登校拒否という難題もあるが、何れにせよ、身近な先生がそのキーを握る。

いいクラスに出会えるのも、先生の力量が大きく左右するし、良い学校も、そこにいる先生が作っている。

    愚息が出会った先生で、わずか3年であったが、忘れられない人がいる。

先生といっても寮の先生だ。

彼は、三人兄弟として育てられ、ご両親の深い愛情を受けてきた。

だから、母親の気持ちも、息子の気持ちも分かる。

先生である以前に、人として、私達の気持ちを受け止めてくれた。

   近々、悲しいかな、別れの挨拶をしないといけない。辛い。

三年間、親元を離れ、精神的に自立して親離れ出来たのも、なかなか子離れ出来ずに不安を捨てきれなかったのが出来たのも、先生のお陰である。

私達は、きっと、先生のことは別れないだろう。

なぜなら、先生は、私達の人生のターニーングポイントに出会った人だから。

 

 

 

歳を重ねることで得られるもの

 折々のことばで、芸能界を一世風靡した俳優の言葉を見る。

「役者やっていて一番嬉しいことは、おれと一緒のシーンに出たやつがよう見えること」

知る人ぞ知る、火野正平の言葉である。

  思わず、仰け反った。

彼の若い時には考えられなかった言葉だから。

  彼は、歳を重ねることで、自分が輝くよりも、自分が横にいることで隣の人がもっと輝くのを歓ぶ俳優となった。

そして、自分が歓ぶのではなく、他人を歓ばせて自分も歓ぶというのがあたりまえのようにできるようにもなった。

  これは、年齢である。

俳優は、歳をとると、若い時のような主役も頂けなくなるし、メークによる修正も時間が掛かる。

伊達に歳をとっていない、という言葉の意味が、この彼の言葉で理解出来た。

  私達凡人も、そう。

若い時は、口に棘があっても、年齢で許して貰える。付け焼き刃でその場を乗り切ることも可能。

だが、皺もシミも目立つようになると、「そんなことも知らないの?」と馬鹿にされだす。

そこで、これでは恥ずかしいと勉強するか、萎縮して引っ込んでしまうか。

   火野正平は、お客さんの立場になって、自分というものを客観視出来たから、他人を歓ぶこばせて自分も歓ぶことをあたりまえにできるようになったのだろう。

   誰だって、歳をとる。

これは、美智子皇后だって、クレオパトラだって、私だって皆同じ。

だからこそ、歳を重ねて良かった生き方をしたい。

  周りの老若男女の言動を許して、ニコッと出来るのも、その一つではないかな。

皆様は、どんな歳を重ねていきたいですか?

 

 

 

 

 

 

おやじのせなか、から昭和の父像

 今朝、小島慶子の父の言動から、昭和の父像がくっきりと蘇った。

終身雇用で定年まで働き、自分の趣味もなく、生きていき、尽きた。

それは、かわいそうではなく、当時は当たり前の生き方だった。

   小島さんは、ご主人が突然会社を辞めて専業主夫になったことで、世の男性の自由でない生き方を痛切に感じるようになる。

家のローンを抱えて、子供を大学まで行かせる為に、毎日満員電車に揺られている。

しんどいなんて言おうものなら負け犬扱いされ、家では粗大ゴミなどと言われる。

そうだ。

昭和の父は、家族の為に戦った。

 

皆様のお父さんは、どんな方でしたか?

 

昭和の父の生き方は、平成の父像とは異質であり、ある意味、潔さと尊さを感じる。

どうか、長生きをして貰いたい。

 

人との出会いで気をつけること

もう、卒業式などの別れが始まっている。

子供の心身の成長と共に、思い出が交錯していることだろう。

   出会いも別れも、実は一期一会。

そのことを頭の引き出しに置いていたら、折々のことばで、こんなのを見つけた。

これも一つの出合いである。

御紹介する。

「最後にかわした言葉が心残りだった、ということにならないように」

これは、登山家の田部井淳子の言葉である。

   登山家の彼女は、家族がどこかに出かけるときも、まさかの事故の時のため、その日の服装をしかと脳裏に焼き付けるようにしてきたという。

胸が詰まるが、生きることは、それだけの緊迫感があるのが分かる。

   「じゃあ、またね」と手を振って別れる時に、作り笑いでなく、心からのいい顔でと決めた。