思いの丈☆宅配便

書いて読んで繋がりませんか!

自分へのご褒美を活かす方法

 皆様は、ご自分にご褒美をあげていますか?

私も、最初はあげていて、その効果もあった。

しかし、慣れていくると、ご褒美の一粒チョコが、2粒、3粒となって、いつの間にか大袋を摘むのが当たり前になってしまう。

これを防止するよい方法を、臨床心理士の方が教えてくださっている記事を発見。

皆様にもご紹介したいと思い、ブログに載せる。

  『たとえば、一口サイズのチョコレートの大袋を開けて、気のむくままに口にするのではなく、お皿洗いが終わったら一粒、掃除が終わったら一粒、というように、やるべきことをやる時間とチョコの時間を少しずつ分けていくことが効果的です。数分でいいのでご褒美を「先延ばし」にするのです。最初は難しいですが、この先延ばす力こそが「抑制」という脳の働きです。日頃、感情を抑えて我慢したり、やりたくないことでもちょっと我慢して着手したりするときに役立つのです。抑制を鍛えることで、ご褒美へのときめきを取り戻せますよ』

  皆様も、やってみませんか。

能登の子は13年前の私

 今朝の新聞掲載は、小学校教諭になった中谷萌瑛さん(23)だ。題目の『能登の子は13年前の私だ』は、彼女の半生を要約している。さすが教員資格をお持ちなだけある。文章がきめ細やかで、よく理解できた。

 彼女は、13年前まで東日本大震災が起こった福島県いわき市で生活していた。断水に続く予震、放射能への恐怖から、お母さまの判断で能登に引っ越しをした。

 その時彼女は小学4年生。まさかその13年後に、同じ経験をするとは予期しなかった。きっとこれは偶々ではなく、人生のシナリオに既に載っていたと思う。それは意味のあることであるからだ。このことは、次に説明したい。

彼女は、昨年、お母さまと同じ職業の先生を選び、石川県中能登町の鳥屋小学校の先生になった。

 同じ地震被災地の福島県いわき市からの移動は、初めての土地で『静かな良い子でいなきゃ。自分らしさを出して、嫌われたら大変』と自分の存在を許してもらえるかの不安から、自分に言い聞かせた。その経験が、彼女に、こう語らせている。

「新しい仲間が増えました。学校でいい子でいなきゃなんて思わず、自分らしく過ごしてね」

私は、この言葉は、子どもにとって、どんなに心強いか、そして安心できるかとこちらまで嬉しくなった。

 彼女には、自身の精神面での成長に、大きな役割を担ってくださった方がニ人いる。

まず一人目は、担任の中江先生だ。

中江先生は、石川県に転校してきた時の不安いっぱいだった心を分かって実質的にフォローしてくださった。

先生とは、教育実習先で再開している。うれしそうに出迎えていただいたようだ。

この担任の中江先生は、彼女の周囲へのちょっとした遠慮や友だちとのぎこちない関係を見逃さず「どんどん輪に入っていいんだよ」と背中を押してくれた。風邪で休んだときは、悩んでいるのではないかと心配し、家まで様子を見に来てくれた。学校全員を前に、「いろんな友だちと関わる大切さ」を説く授業をしてくれたこともあった。その結果、同級生との距離がぐっと近づい気がしたようだ。そして、内から外へと世界は広がった。地元のよさこいチームに誘われ、入団すると知り合いが増え、近所の人たちも、「大変だったね」と小学校の制服のおさがりや、畑で作った野菜を相次いで持ってきてくれた。聞き取れなかった土地の方言もいつ頃から分かるようになったのかはわからないが、自然と口から出るようになっていた。

 もう一人は、お母さまだ。

東日本大震災の土地から石川県能登への自主避難という決断を話された。

引っ越しする2日前に話したのは、お別れでつらい思いをさせる期間を長引かせたくないと熟慮した結果だった。それは、お母さまの人柄もあるが、教師をされていて子どもの教育面でも勉強、体得もされていたからだろう。そして何よりも我が子を思う愛情が深かったからと予想する。お母さまは、避難先で家族の暮らしを介護の仕事で支えてくれたことも、生きて行く為には大きい。

  

まとめると、中谷萌瑛さんは、お母さま、中江先生の精神面のフォローしてくださる人のお陰で、今がある。プラスその時の子ども時代の経験が、現在の石川県での教員指導に活きている。風化されないという役目も彼女は、しっかりと果たしていくだろう。

 

 皆様も、ご自分の人生を振り返ってみてください。私自身もそうだった。

今関わるお仕事や普段何気なくされていることは、苦手なことや辛かったことが切っ掛けではないでしょうか。

 私は、感受性が鋭くて、気疲れで生きることもしんどい子ども時代だった。それが昔の20歳の成人式を過ぎてから、かなり年数を掛けてだが、この感受性の鋭さを活かしていけないかと考えた。今では、五感で感じたことを相手に言葉掛けで伝え、笑顔をいただけることに喜びを感じている。

 

 人生は、90歳近く生きている方も、まだまだこれからと言われている。

皆様も、私のように短所を長所に輝かせて生きている者もいることを知って、再度ご自分の価値を見直して今から生きてみませんか。

楽しくなりますよ。

 

 

 

母のごちそう振る舞う幸せ🔴堀江ひろ子

 昨日の3月トップのお料理に、テレビでお馴染みの料理研究家である堀江ひろ子さんが、チキンライスの作り方と共に、自身の現在のお仕事を選んで、進む切っ掛けとなった思い出が記載されてあった。

 堀江ひろ子さんは、親子3代で、料理家として有名。そして、彼女の人柄から醸し出される柔らかな笑顔が、いつも私たちに安心感と癒やしをプレゼントしてくださるので、好きだ。

 彼女が料理研究家を将来の仕事として決めたのは、小学校高学年に行われた校庭での飯盒炊爨(はんごうすいさん)だ。

班ごとに分かれて好きなメニューを決める中で、他は白ご飯に味噌汁やカレーであるところを、彼女は自ら「チキンライスにしよう」と提案した。なぜならば、チキンライスは、彼女のお母さま(堀江泰子)が「ごちそう」として時折作ってくれていたから。

そのメニューの実施の結果は、歴然。 

彼女のその時感じたことが、将来を決めた。

  『同級生のみんなの前で料理をするのは初めて。みんなに「おいしい」と言われてうれしかったです。  料理で人を幸せにする喜びにあふれた思い出の一品になりました。 直接料理を振る舞える相手は限られます。しかし母の仕事は、テレビや新聞を通して、実際に作ってくれた人とその人の周りの人までも幸せにすることができる。「すごい仕事だな」とあこがれ、高校生の頃には自分も母と同じ道をすすむことを決めていました』

 この話を知り、皆様は、どのような感想を持たれましたか?

 いくらお母さまがごちそうにとチキンライスを作ってくださっていても、初めて人前で作ることは勇気のいること。失敗したらどうしようという不安もあったはず。しかし、自ら提案したところに、リーダーシップ性も持ち合わせていたのだろう。そこが凄いと感じた。

それと母親と同じ仕事を選びのは、素直にお母さまに尊敬と憧れの気持ちがあったからだろう。

 

最近、料理家の子供が、親と同じ仕事を選ぶ経緯を本人の言葉から聴くことが多い。

それを聴いていると、大きく3つのパターンがある。

1つ目は、迷わず当たり前になった方。

2つ目は、他の仕事をして、店を畳むからと言われて、した方。(親と比較されるのは嫌だからとしない場合もある)

3つ目は、同じ仕事はしなくてよいと言われた方。これには、更に2つある。

1つは、親がやっている意味を見つけたかった。

もう1つは、親を超えて、更に極めてたいと思った。

後を引き継ぐには、3つ目が、気持ち的に、プレッシャーも半々で、進みやすいように思えた。

 

 仕事を選ぶ理由は、人それぞれ。

私は、堀江さわ子さんの「その人の周りまでも幸せにできる」というところに同感だ。

皆様は、いかがでしょうか?

 

 

丸は幸せのかたち、を読んで

 この題名は、「21番環状染色体症候群」という染色体が丸くなっている障害の女の子(27)を育ててきた女性がつけたものだ。

  読んでいて、生きることと自立の意味は置かれた環境により大きく異なることを皆様にもご紹介したいと思う。

  彼女は、こう書き始めている。

『娘は重度の知的障害もあり、読み書きや話すこと、一人で歩くことも難しい。「こんなことを言ったら怒られそうだけど。」と前置きしたうえで、「娘はそういう人生を選んだんじゃないかと思うときがある」と話す。 車椅子に乗る娘を見ると、周りの人は「大変そうだね」と言う。でも娘は楽に移動できて、にこにこと楽しそうだ。 自立することは大事だとは思う。でも、娘は家族が大好きなようだ。私や夫や弟が帰宅すると拍手し、ひざをたたいて喜びを表現する。 自立とは、何もかも一人でできることではなく、できないことは周りが手助けしつつ、本人が自分の人生を楽しむことも自立なのではないかと感じている。 娘は、娘の世界で生きている。何が普通で、何が普通でないのか。〜社会には多様な人がいて、マジョリティーとマイノリティーはその時々で逆転する。  娘がいなかったら、そんな当たり前のことに気づけなかったかもしれない。 染色体が丸くなっている娘の障害から、丸いものを見るのがつらい時期もあった。でもいまは「丸は幸せの形なんだ」と心から思える。 そして彼女は、地元で開かれた講演会でこう語っている。「何かできないことができるようになることは、もちろん大切です」「でも、生きているだけで丸もうけ。私にととっては、いま、娘が生きていて笑顔でいてくれるだけで幸せです」』

 

  まず、自分が彼女と同じ立場であったならどうだったか?を考えた。

きっと悩み苦しんだに違いない。でも、同じ想いの人達と出会い、自分だけではないんだと分かったら、どうせ生きるならば楽しく前向きに毎日を過ごそうと切り替えたと想う。

何よりも自分や家族に対して、喜びを体当たりで表現してくれる娘を毎日見れたならば、嬉しさがこみ上げてきて、生きることが幸せだと娘と出会えたことを感謝に変えていけたと想う。

  だから、一番大切なのは、今の自分に与えられた環境の中でどう考えて、生きるかだ。

 子育ての渦中にいる時は、何ごとも、一つできるようになると次を望んでしまう。たまたま周りにいる子供の学校の同級生のお母さんの見た目の幸せが目について、「どうして、自分は?」と一番大切な子供が元気でいてくれていることを忘れてしまっていた。見た目の幸せの裏は、かわいそうなこともあるのに、そこまで気持ちは回らなかった。

  子育てに関しては、周りに少し年齢の離れた先輩ママに、話を聞いて貰うのが何よりのことを付け加えておく。

 

 最後に、幸せとは、人により違う。

究極の幸せは、生きて、笑っていること。

過去は過去〜始まる最相葉月さん

 今朝の新聞で目にした折々のことばに、電撃が走ったので、ご紹介する。

 最相葉月さんは、デビュー30周年を迎えるノンフィクション作家だ。

『過去は過去、今は今。今日から始まる思い出だってある』

 普通の文章では、「過去よりも未来よりも、大切なのは今この時」とある。

それが、「今日から始まる思い出だってある」ときた。

その理由は、この文章が、ご自身のお母さまの介護に、若年性認知症を患いだしてほぼ30年の長期間を意味する。その間、遠隔地から通い、その後近所の高齢者施設に助けてもらってきたからだ。

最後の結びに、こうある。

元気だった頃の母はもう思い出せず、「納得のいく人生」は「やりたいことを自由にできる」人生とは別なのかと独り言つ。でも心に残ることはこれから作れる。これは母が私に与えた「最後の教育」だと。

 

結局のところ、30年間は、相当に大変だったのだろう。これからは、やりたいことを自由にできる時間を手に入れ、本当の自分の人生を生きていけるということを言いたかったのだ。イコールお母さまが娘に長く迷惑を掛けてごめんなさい、これからはあなたの人生ですよ、と最後の教育を意味しているのだろう。

 

 改めて、千差万別の人生であるが、こんな人生もあることを知ることができて、よかった。

 こちらに書かれているのは『母の最終講義』だが、最相葉月さんの本を読んでみたいと思った。

 皆様は、いかがでしょうか。

幸せのピースを集めて

 今朝の「ひととき」は、上京して1年が経つ女子大学生の話。読んでいて、爽やかさをいただき、生きる上での大切なことを教えて貰えたので、ご紹介したい。

   彼女は、家族と離れての生活に、心に大きな穴が開いたような寂しさを感じていて、その寂しさを埋めるように、何気ない日常の小さな幸せを糧に生活を送っている自分に気がついたそうだ。

その小さな幸せが、初々しくて、斯くして言う私も同じであることに「同じよ」と心で頷いた(笑)

それは、こちらだ。

『バイト先のお客さんからの「忙しいのにありがとう」という一言は、何よりの励みになる。通学途中の信号が全部青だった、買い物に行ったらまとめ買いがお得な日だった、掃除を自分で決めた制限時間内に終えることができた、など、ささやかな出来事にも小さな喜びを感じる。 ▶新型コロナや紛争、自然災害。近年のニュースには悲しい出来事も多く、いろいろなことを考えされられる。学校に通えること、ご飯が食べられること、「推し」のアーティストがいること、離れていても家族や友達とLINEなどでつながっていられること、当たり前の日常こそが幸せなのだと、思えるようになった。  ▶その当たり前が当たり前で無くなる瞬間が突然やって来るかもしれない。だったら日々の生活の中で、少しでも多くの幸せを感じたいものだ。今の環境に感謝しながら、幸せのピースを集めて日常を彩っていきたい』

 

 これをご家族の方が読まれていたら、生き辛い現在を生きて、順調に精神的な成長をされていることに喜んでいらっしゃることだろう。そして、周りの方にも恵まれていることに感謝されていると思う。

 私は、彼女がこのまま生き続けて、いつかご自分の幸せから、周りの人の幸せも祈れる人になり、令和の時代になくてはならない人財となりますようにと心よりエールを送りたい。

 

 

大間圭介さんのあれから15日

 今朝の新聞に、私が1月16日載せた石川県警珠洲署員の大間圭介さんの今が掲載されていた。

 大間さんは家族の葬儀時には、自分だけが生き残った自責の念と罪悪感を強く言われていた。

それが、今朝の新聞には、こう載っていたので、皆様にそのままご紹介したい。

『「妻や子どもたちが、生きたくても生きられなかった人生を、自分が頑張って生きていこうという思いでいっぱいです」あの日以来、外出する時には、写真立てをかばんに入れていく。これからも、家族は一緒。色んなところに行って、みんなが見ることができなかった景色を見せてあげたい』

 

 大間さんは、朝のテレビニュースで葬儀の模様が放送されていたので、石川県警の方に、一般の方からの励ましなどのお手紙も届いていただろう。お電話などもあったかもしれない。そして、警察の同僚・先輩などの声掛けやアドバイスもあっただろう。

私個人としては、生きることに対しての、当初のマイナスの気持ちがプラスに動いたことで少しほっとしている。

   警察官としての安全を守る仕事や、家族が生きられなかった人生を行きるということも大切だ。

でも(敢えて逆説する)、これから命を終えるその日まで、1人でなくてもよいと思う。

家族を持つことは、この前まで家族であった奥さんや子どもたちも、きっと喜んでくれるはずだから。